溝口敦刺傷事件


 1990年8月29日の夕方、溝口は東京・高田馬場の仕事場を出、マンション玄関の郵便受けから郵便物を取り出し、ショルダーバッグに収めようとしたところ、白っぽい上下を着た30代の男が外から入って来、無言で溝口に近づくと右手を左脇背にぶつけてきた。最初は殴られた程度の痛みしかなかった。溝口が男に向かって一歩踏み出すと、男は背を向けて玄関を走り出、右手の上り階段を逃げた。反射的に溝口は10メートルほど男を追ったが、追い切れず、その後東京女子医大病院に救急車で運ばれた。傷は深さ10センチ、幅5センチで、刃先が腎臓の上部をかすめていた。集中治療室に入れられ、全治1ヶ月の負傷だった。

 溝口は89年8月から90年5月まで「東京スポーツ」に「山口組五代」という記事を連載していた。その中では当然、五代目組長に就任したばかりの渡辺芳則のことも取り上げた。かなり辛辣な論調だったが、89年8月末、山口組の宅見勝若頭から「山口組直系組長の誰から情報を得たのか」という電話を受けた。言えないと答えたが、宅見は「情報源が誰か見当はついている。近々東京に出るから、また電話する。あんたに会って書く真意を確かめたい」と言った。その後、宅見と会うことはなく、90年5月連載を終えてほっとしていると、何度か電話でのやりとりの後、5月22日、山口組の直系組長の一人と新宿ヒルトンホテルのロビーで会うことになった。ロビーでは若い者が溝口を待ってい、近くの企業舎弟の事務所に車で連れて行かれた。直系組長の一人は「山口組の俺の仲間があんたを問題にしている。はねっ返りも二、三いることだし、あんたにケガをさせたくもない」と言い、最終的には「今後、山口組のことを書くに当たっては事前に俺に原稿を見せてくれないか」と要求した。

 溝口は「その前に言っておくが、私は連載『山口組五代』の現在編を部分的に収録して加筆もし、近々本を出しますよ」と明言した。直系組長は「それは困る。どこの出版社から出すんだ。ゲラを見せてくれ」と言った。だが、24日、この直系組長から電話があり、「ゲラを見せろ」という要求は「出版を中止せよ」という要求に変わった。溝口は「もし中止要求を飲めば、私はもの笑いのタネになり、ライター生命はない。どうあっても中止は飲めない」と突っぱねた。溝口は、この決裂で山口組が何かしてくるだろうと予測したが、予定通り6月30日付で『五代目山口組』を三一書房から出版した。

 このような経緯の後、8月29日の事件が発生した(この辺りまでの経緯は『週刊朝日』90年9月21日号、「襲われたルポライター溝口敦独占手記『山口組とのわが闘争』」で溝口自身が詳述している)。

 警視庁は事件発生1週間前、溝口の自宅を撮影していた車のナンバーをたぐってゆき、大阪山口組のある直系組に行き着いたが、犯人は特定できず、事件は迷宮入りして時効を迎えた。